このまま電車が止まればいいのに、と思っていた。
失恋して自棄酒したら、当然のように二日酔いになった。
もう若くないのだと気付かされるのはこんな時で、気分の悪い体に更に精神的な追い打ちをかけてくる。
そして当然、会社が休みになるわけもない。
養ってもらうなど程遠い三十路間近の女が、二日酔いなどで早々休めるはずもなかったので。

良かったのか悪かったのか分からない。
どんよりと最悪の気分と体調で目が覚めたのは、本来なら家を出るはずの時間だった。
十秒だけ、自分を甘やかして休んでしまおうかと考えたけれど、抱えてる案件と上司の嫌味を思い出せば、やるべき事はすぐさま立ち上がって顔を洗う事だった。
男の上司というのは女よりもずっと露骨に年齢と顔で差別をしてくる。

メイクもそこそこに髪をひっつめて、自転車に飛び乗る。
急いでいる時は、なまじバスなんかよりもよっぽど早く着く。
こういう時スーツって楽だな、と私服だった高校時代を思い出したけれど、それって女を捨ててるって事だろうかと思ってひたすらペダルをこぐのに専念した。
朝食を抜いても未だ胃に残っている酒が撹拌されているみたいで、それでも電車の時間を逆算して足は力を増していく。
走って駆け込みタイムカードを押し、トイレついでにメイクを直した。
幸い上司は会議中だったので、見咎められる心配はなかった。

なんで自棄酒なんかしたかなぁ。

おかげさまでせっかくの土日の休みをなんと不健康に過ごした事よ。
ほとんどを寝て過ごし、後はろくに食べもせずにひたすら酒をかっくらっていた。
たまった洗濯物、少しざらつく床は見ない振り。
普段は滅多につけないテレビも、静けさがやけに響いてBGM代わりにつけては右から左へ穴場のデートスポットなんかを聞き流していく。
余計に寂しいだなんて、気付いたところでもう今更消せもしない。

クールでドライ。
事務職だってあるのに、わざわざ男ばかりの営業職に就いている私を、事務の女の子達はそんな目で見ている。
男勝りでかっこいいですよねぇ、の言葉の裏側にあるのは『私だったら絶対嫌だけど』の真意。
古い言葉だけれど、腰掛けというのを理解して割り切れている女の子達は総じて可愛くあしらいが上手い。
そして計算通り早々と養ってくれる相手を見つけて寿退社という脚光を浴びて去っていくのだ。
私には到底真似出来そうにもない。

今までだってなぜかそう。
恋愛経験が少ないからあまり喋らずにいるだけなのに、大人だね、なんて言われてしまう。
仕送りのあてがない一人暮らしはお金の心配が付きまとうから、電話嫌いなのに営業なんぞやっている。
男の中で遜色劣らず、なんてかろうじて評価してもらっているが、正直ノルマは同じなので必死になっているだけだ。

「おい、あれどうなってる」
「・・・はい、今日中には何とか」
会議の終った上司が、挨拶抜きに尋ねてくる。
最近では、あれ、それ、だけで何が言いたいのか分かるようになってしまった。
こんな奴と夫婦みたいだなんて、考えただけで泣けてくる。
上司が言いたいのは電車の車内広告の件だ。
中吊り広告よりも上の車内側面、ずらりと並ぶ広告。
それ一枚貼るためにこれだけのお金がかかるなんて、いやむしろお金がいるなんて、入社するまで知る由も無かった。

広告代理店の言葉通りに、手がける仕事は様々だ。
一口に広告と言ったって、無料の情報誌、パチンコ新装開店のパンフレット製作、駅ビルの看板、宣伝バス、そして電車の車内広告まで、雑多多用だ。
広告料を出してくれる店舗側の方がいつか少なくなるんじゃなかろうかといつも思うけれど、いくら不況と煽られようと金は必ずどこかにはあるもので、いつだってどこかしらが大掛かりな広告を打ちに来る。

「数字いいんだから、絶対とれよ」
「了解です」
多々広告がある中でも、車内広告は各段に値段が高い。
すなわち、歩合も高い。
今月の成績に滑り込ませるために、何としてでも今日中に契約に取り付けろとのお達しだ。

「外出してきます」
ホワイトボードに行き先を記入し、重たい体で会社を出た。
乗った電車は私鉄の沿線だ。
駅を一つ通過するにつれて、窓外の景色もぐっとのどかになる。
出勤ラッシュのピークを過ぎた車内は人もまばらで、易々席を確保できた。
眠ろうかと思ったけれど、目を瞑ると色々思い出して気持ち悪くなったので、鞄から本を取り出した。
酔うかな、と少し心配したけれど、どのみち酔っているようなものだと開き直ってページを捲る。
捲って、心底驚いた。

ずっと前に買ったまま、読めていない本だった。
映画化の文字に惹かれて買ってみたはいいものの、連日の忙しさに買ったことも忘れていた。
私鉄の電車、その各駅をテーマに様々な人の目線から書かれていたけれど、驚くべきは、自分の名前と同じ登場人物が出てきたことだ。
それも、なんの因果か本の中でも私は失恋していた。

本の中で、私は振られた男の結婚式に真っ白なドレスを着て臨んでいる。
寝取られ子供も作られ、素直に別れてやる条件が結婚式に呼ぶことだった。
花嫁よりもずっと美しい自分を両方に見せ付けることで清々するけれど、同時に深く傷ついてもいる。

本気の恋なんて、しないと思っていた。

自分が誰かに執着するなんて、信じられなかった。

だけど、別れたくないなんて、口が裂けても言えなかった。

本の中の私と違うのは一つだけ。
彼女はけして寝取った訳じゃなかった。
だって私達はそういうものがあるのなら親友と呼べるものだったんだから。
彼女は私達が付き合っていたことを知らなくて、私の友達だと知らずに手を出して、避妊に失敗する男が悪い。
けれど、親友であるならば、そんな男であっても祝福するべきなのだろう。
何も知らずに、当然のように結婚式の招待状を送ってくれた友達の旦那様なんだもの。

私達は、本当に不器用みたいだねぇ。

本の中の私にも同情し、自嘲する。
恥ずかしいけれど、電車の中で涙をこぼした。
乗っている人が少なくてよかった。

マスカラが落ちないよう、ハンカチで押し当てるように涙を拭い、手鏡を出してさっと目元を直す。
これから一勝負待っているのだ、情けない顔をしていられるか。
だって私は、彼女にきちんとおめでとうと言えた。
普段はメールのやり取りで滅多にない電話。
最初の恥ずかしげな声ですぐに内容が分かった。
相手まではさすがに想像できるはずがなかったけれど。
祝福した私の声はきっと震えていなかった。
せいぜい綺麗なカラードレスを纏って、お相手でも探す勢いで乗り込もうじゃありませんか。

私鉄の沿線は、平和な景色をその窓に切り取っている。
電車の中で外で物語があり、登場人物以外にとっては、それは切り取られることのないただの日常に過ぎない。

本の中の私は、優しい老女に諭され、途中下車する。
白のドレスを脱ぎ捨てるために、服を買いに行く。
そこから先は、読まなかった。
目的地まではあと一駅あったけれど。

眠ってしまわないでよかった。

遅刻と焦る中で、本棚から一冊鞄に入れる習慣を忘れないでよかった。

未練なんてそんなもん、早々に捨ててやる。
結婚式でのあいつの表情が今から楽しみだと自虐的に自分を励ます。
ご祝儀だって気前よく払ってあげましょうとも。
だって私の年収、彼の倍はあるんだよね、なんて。
電車は線路沿いに走っていくけれど、遠い関西の私鉄と関東の私鉄の車内で、同じ名前の私達は確実に繋がっていた。
強い女で何が悪い。
女だからこそ強かでなければ生きてはいけない。
泣いて泥仕合するくらいなら、最初から泣かさない男を見つけてみせる。

目的地を告げるアナウンスが響き、すっくと立ち上がる。
自然に顔が引き締まる。
エスカレーターを使わずに階段を駆け上る。
朝の気分の悪さはいつの間にか抜け落ちるように消えていた。

体に合わせて揺れる鞄から、栞を挟んだ本の背表紙が覗いている。

今日の商談を絶対に成功させて、一人家での祝杯にはテレビを消してこの続きを読もう。
本の中の私がどういう結末に落ち着くのかは、それまでのお楽しみだ。